ヘンリー8世と修道院解散

フランスなぞでは、青い空を背景に、いまだ、国内各地に中世の修道院がそのままの形でたたずんでいたりするのでしょう。それとは対照的に、イギリスで、中世の修道院といえば、どんよりとした空の下、そのほとんどが廃墟と化した姿で建っています。その理由は・・・お騒がせ王ヘンリー8世の下、1530年代に行われた修道院解散(Dissolution of the Monasteries)。

修道院解散が行われる前のイギリスには、尼の修道院も含め、約800の種々な修道院があったと言います。イングランド各地の町や村から、約1キロも歩けば、何らかの修道院に行き当たり、修道院での祈りの時間を告げる鐘の音は、周囲に住むものには馴染みの音であったわけです。

修道院の宗派は、ベネディクト修道会、シトー修道会、アウグスチノ修道会、その他いろいろ。ヨーロッパの本家となる修道院との関係は強く、ラテン語、更にはフランス語を共用語とする国際的感覚のある組織でもあり。宗派によって其々、特徴と違いはあれ、やはりキリスト教団体ですから、一番大切なのは祈り。そして、残りの時間は種々の労働。労働は、修道院の生計を立てるための農業、羊牧、そして養蜂なども行い、また、聖書の勉強、写本、挿絵・・・等。ただ、やはり、定期的お祈りの時間を告げる鐘の音が鳴ると、どんな労働をしていても中断。

さて、ヘンリー8世は、第一番目の婦人であった、キャサリン・オブ・アラゴンを離縁し、若きアン・ブリンと結婚するため、ローマ法王と袂を別ち、1534年、首長令(Acto of Supremacy)で、イギリス国教会の長となります。彼の目が、多くの土地を有し、富裕なものも多かった修道院に行かないわけはない。

修道院の解散を実際に計画施行したのは、ヘンリーの右腕であったトマス・クロムウェル。王様や権力者は、汚いことは手下にやらせて、自分は手を汚さずに、何食わぬ顔。良くある話です。トマス・クロムウェルは、まず手始めに、1536年に法令(Dissolution of the Lesser Monasteries Act:小修道院解散令)を通し、約400の小さめの修道院を閉じます。

そして、1537年の終わりから38,39年にかけ、こちらは、最初は法令も通さず、残りの大型修道院を全て閉鎖。ほぼ全て閉鎖してしまった後、1539年になってから「修道院なくなりました!」と、事後事実としての法令(Act for the Dissolution of the Greater Monasteries:大修道院解散令)を通しています。

大修道院解散の際、修道院長の中には、自分が良い年金がもらえるよう交渉して、簡単に修道院をあけ渡す、まるで宗教的モラルの無い様な人もかなりいたようです。一方、少数派ではあるものの、グラストンベリーの修道長の様に、あけ渡しを抵抗した挙句、謀反人として処刑(Hanged, drawn and quatered:死なない程度に首を吊った後、内臓を裂き、身体を4つ切りにして、さらす刑)となった者も。

坊さん、尼さん達は、皆、解雇。別の教会関連の事柄に従事する者や、一般生活に戻る者も。閉鎖された修道院は、後に使用不可能になるよう屋根を解体し、内部にある金目の物、売り払う事ができるものは、全て王が没収。更に、修道院所有地も全てヘンリーが没収し、後に市価で、ジェントリ(郷紳)や貴族達に売り払って、金もうけ。こうして、修道院解散によって搾り取ったお金のほとんどは、天敵フランスへの防御用に、南部イングランド海岸線に要塞を建てる事などに使われたと言います。これら要塞、ほとんど役立たずだったという話ですが。

こうして、屋根を剥がされ、内部ほとんど空となった修道院は、雨風にさらされ朽ちて行く事に。更には、地元民たちがやってきて、石や木材まで、再利用できるものは、持って行き。実際、近隣の村に対して傲慢な態度を取り、嫌われていた修道院などもあったようですので、廃材持って行って何が悪い、という態度もあったとか。それに、閉じられた修道院から盗みをはたらいても、神の怒りをかって、雷に打たれて死んだ奴などもいない・・・ということは、修道院は、天の加護も受けていない、ただの建物じゃないか・・・との認識も伝わり、その神聖さは、建物の解体と共に地に落ち。こうして、昔の修道院から盗んだ石や木材を使った建物や、家など、今日でも各地に残っています。

ヘンリーは修道院は解体したものの、大聖堂作りには、それなりの熱意があったようです。実際、修道院付属であった大聖堂で解体をまぬがれ、イギリス国教会の大聖堂として今日も現存するものはあります。イギリス国教会の総本山、カンタベリー大聖堂もしかり。また、修道院内の教会で、解散後は、教区教会として、そのまま生き残ったものもあります。

朽ちていった修道院の廃墟は、後の世で、浪漫と郷愁を呼び起こすものとして鑑賞されるようになり、現在、こういった廃墟のいくつかは、ナショナル・トラストやイングリッシュ・ヘリテジ、または個人により管理維持されています。私も、かなり多くのこうした修道院めぐりをしました。時が止まっているような、静かで、緑深い、美しい景色の中に建っているものが多いです。

尚、トマス・クロムウェルは、修道院解散直後の1540年にヘンリー8世の4度目の結婚騒ぎで、ヘンリーの怒りを買い失脚。同年、斬首刑となります。一時は、泣く子も黙ると、権威をふるった組織も個人も、「猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ」。

*過去の関連記事
「全ての季節の男」ヘンリー8世の離婚騒ぎについて
「ピクチャレスク」修道院の廃墟とランドスケープガーデンについて

*写真は上から
1、2番目:ファウンテンズ修道院(Fountains Abbey)
3番目:バイランド修道院(Byland Abbey)
4番目:ボルトン修道院(Bolton Abbey)
5,6番目:セント・メアリーズ修道院(St Mary's Abbey、ヨーク市内)

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